アーツ×アーツ

本好きでマンガ好きのジョン・スミスが書く、名著礼賛ブログです。

カテゴリ: 中編


表面が鈍い鉛色になると半熟卵になる。まだあと五分はかかるだろう。
-ブエノスアイレス午前零時(藤沢周)





どうも!


人生を満たす、青年と老嬢のたった一回のダンス。
きっとこのワンシーンの為に、この作品はあるのです。


1998年に芥川賞を受賞した、『ブエノスアイレス午前零時』。
ロングセラーであり、根強い人気を誇っております。
2014年にV6の森田剛さん主演で舞台化もされてます。


今まで僕は、主人公が自分の内面世界に向き合ったり、理想と現実の間で苦悩したり、どちらかというと暗めな作品が芥川賞を受賞するのだと思っていました。


しかし『ブエノスアイレス午前零時』は、何だか爽やかな読後感。
どうせ最後はモヤモヤした終わり方なんだろ!?と構えて読んでたのにいい意味で肩透かし!


うす暗い作品ばかり読んで胃もたれ気味だったので、本作が心にしみわたって仕方ないです(もちろん、暗い作品も好きですよ!)。


『ブエノスアイレス午前零時』作品概要
盲目の老嬢と孤独な青年が温泉旅館でタンゴを踊る時、ブエノスアイレスの雪が舞う。希望と抒情とパッションが交錯する希代の名作。第119回芥川賞を受賞、あらゆる世代の支持を受けたベストセラー
(引用:Amazon)


雪が降る田舎の温泉旅館が舞台だなんて、それだけで何かが起きそうな予感がします。
なんで雪ってこんなに情緒的なんですかね。


川端康成の『雪国』が思い出されますが、『ブエノスアイレス午前零時』も、静謐な雰囲気は同じく、そして詩的でした。


田舎の旅館で働く疲れた青年と、自分が美しかった時代から戻れなくなった老嬢。
二人とも、決して他人から注目されるような人間ではありません。むしろ軽んじられる側の人でしょう。
しかし二人の交流は、静かで優しく、気持ちのいいものです。


ベストセラーと聞き、そうだろうなと納得しました。
世代を超えて多くの人に愛される作品です。


ではまた!


何かをせねばならない、体は日に日に重くなっていた。
-穴(小山田浩子)





読了目安:2時間



どうも!


芥川賞を受賞した『穴』を今更ながら読了しました。


よくわからない、掴めそうで掴めない、これって一体何なんだろうっていうのが本音です。


『穴』内容紹介
仕事を辞め、夫の田舎に移り住んだ夏。見たことのない黒い獣の後を追ううちに、私は得体の知れない穴に落ちる。夫の家族や隣人たちも、何かがおかしい。平凡な日常の中にときおり顔を覗かせる異界。
(引用:Amazon

あまりにもわからなさ過ぎて、ネットの筆者インタビュー記事を読んで内容を補完しました。
一部引用しますと、


自分の小説を書く方法というのが、断片的なシーンをたくさん書き溜めて、それを最後に順番を入れ替えたり、削ったりしてまとめるというものなんですけど、まずは物語の順番とは関係なく、思いつくままに色々なシーンを書いていくんです。
(引用:『bestseller's interview 第56回 小山田 浩子さん』

登場人物を見てみても、みんな悪気のない普通の人なんですけど、それぞれどこか気持ちが悪かったりします。
(引用:同上)

私も24歳の時に結婚したのですが、ヨメにとって夫の実家はこれまで全く関係のなかった『イエ』。もともとはよそ者であるそのヨメが、そこで子供を産み、時間が経つに連れていつの間にか一家の大黒柱になっている。それが本当に不思議で……
(引用:PRESIDENT ONLINE 著者インタビュー




執筆が「断片的で思いつくままに書かれたシーンをくっつき合わせる」スタイルを取っていると知って、なるほど、だからどこか掴みどころがなかったのかと勝手に納得しました。

印象的だったのは、主人公の「私」が派遣社員として働いている職場のトイレで同じく派遣社員の同僚と話すシーンでした。主観が主張が強く、自身の立場の弱さや愚痴をまくし立てる同僚に対して、「私」はどこか自我が薄く、俯瞰的です。嫌なことや不満もあるけど、世の中こんなもんだよね。もっとつらい境遇の人もいるだろうし。といった様子。ここで主人公の内面というか、思考の癖、マイナス感情に対して達観して相対化することでバランスを取ろうとする姿勢が見受けられます。自分自身の事なのに、主観ではなく、客観で評価してしまう癖。

そんな主人公が田舎に行き、田舎独特のちょっと閉鎖的というか、人間関係がべたついている場所に移るわけですけど、普通に付き合う分には普通に良い人な人たちの、自分とはソリの合わない部分が見え隠れしてしまう感じが生々しくて気持ち悪いです。

近所の子供も、お隣の奥さんも、義理の両親も、連れ添っていた夫にも、田舎に移ってからはなんか違和感がある。原因はわからないのだけれども。

なんてことない事が積み重なって、それを総合して考えると相手の性根の悪さが推測できてしまうなんて、日常でもよくあるじゃないですか。一定の距離感を保った相手と距離を縮めたら、隠されていた見えなかった部分が見えてしまうとか。そんな嫌な感じが全体的に漂ってます。



そして「私」は、いるなんて聞かされていなかった、「自称」義理の兄に出会います。
離れの小屋にずーっと引きこもっていて、突然存在を知った義理の兄。
その人が言うには、「自分は家族の汚点だから、いないことにされている。」
しかし「私」は、ここでも自我の薄さを発揮して、兄の存在について、夫にも、隣に住む義母にも問いただしません。

何か私に言うことがあるなら私の方から言わなくても言ってくるはず、と、考えて。


登場人物全員がどこか生々しくて気持ち悪いんですけど、「私」のこの主体性の無さが、一番引っかかりました。


「私」は無難な人間で、存在を重要視されることもない代わりに、極端に嫌われる描写もありません。でも、どちらかと言えば軽んじられて、本人もそれをうっすら自覚しているらしいようでした。誰からも興味を持たれない、居ても居なくてもさほど変わらない人間。


僕はこんなに感情が薄くて主体性が無く、つまらない人間の「私」が正直嫌いなのですが、そんな主人公の姿に時折自分の一部を観ている気分になり、主人公への反発心は自己嫌悪を内包してるんじゃないかなんて思ったりするわけです。


どんどん周りに染められて、周囲の色に同化していく「私」の姿は、きっとそんなちょっと嫌な共感を呼び起こします。


ではまた!



抱えているだけで厄介極まりない、自身の並外れた劣等感より生じ来たるところの、あさましい妬みやそねみに絶えず自我を侵食されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくことを思えば、この世がひどく味気なくって息苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった。
-苦役列車(西村賢太)




読了目安:2時間



どうも!


今回紹介する作品は、2010年下半期に芥川賞を受賞した『苦役列車』です。
受賞会見で西村氏が発した言葉「そろそろ風俗にでも行こうかと思っていた」も大きく話題となりました。

私小説であり、作品の内容や主人公の姿はほとんどが筆者の経験に基づくものです。
孤独なモラトリアムを経た経験がある読者なら、この作品に対して強烈なシンパシーを感じて仕方なく、主人公の貫多に過去の自分を重ね合わせて背筋が寒くなると同時に、愛しさを感じるかもしれません。


『苦役列車』あらすじ
時代は昭和後期(主人公の生年からの計算や劇中のカレンダーから1986年と思われる)。19歳の北町貫多は、日雇い労働で生計を立てている。貫多が幼少の折、彼の父親が性犯罪を犯したことで家庭は崩壊した。両親の離婚、数度の転校を繰り返すなかで鬱々とした青春時代を過ごす彼は将来への希望を失った。やがて中学校を卒業した彼は、母親からむしり取った金を手に家を飛び出し、港湾での荷役労働に従事することで一人暮らしを始める。日当の5500円は即座に酒代とソープランド代に消えていく。将来のために貯金するでもなく、月の家賃のため金を取り置くわけでもなく、部屋の追い立てを食らうことも一度や二度ではない。こうして貫多は、義務教育後の4年間を無為に過ごしていたのだった。
(Wikipedia)

中卒で、プライドが高く、友もなく、日雇い労働で糊口をしのぐ貫多は、酒と女を買うために月々の家賃の積み立てにさえ手を付けるロクデナシです。誰の目から見ても負け組で、他人を妬み、足を引っ張ることに喜びを感じる人間です。人望を集めることもできず、友情や愛情の築き方、扱い方を知りません。


心の底にある劣等感、自身では軌道修正も不可能な程に崩れてしまった人生に対する嘆き、若さを消費するだけの日々、何が間違いなのか気付くことすらできない自分の低能、何をどうすればいいのかわからない虚脱感、など、あらゆるマイナスの感情を自分の傍らに置き続けてしまったがために、それが当たり前となってしまった貫多の姿に、強烈なシンパシーを抱かずにはいられません。
このように誰の目から見ても明らかにひどい人生となったら、もう自分で自分を愛するしか自分を救う方法はありません。最悪な自分に対する嫌悪感と、そんな自分に対する根拠のない(しかしとても大きい)肯定感が心の中に共存します。


主人公の人生が良いか悪いかなど些細な問題に思えるほどに、この作品が持つ雰囲気に惹かれます。


そしてこの作品の素晴らしい所は、そんな貫多が40代になり、変わらず、頼る友も親類もいない惨めな生活を送っている姿が描かれるところです。
40代の汚い男となった貫多が腰痛を患い、トイレへ行くことすらままならずペットボトルに放尿する姿には圧倒的な孤独と悲哀があります。見ていられません。

孤独な人間がきっかけ一つで変わって、楽しい人生を過ごせるようになるのが世間に受け入れられる物語だとすれば、苦役列車は全くの逆。

ろくでなしの主人公を誰も助けず、何も変わらず、悲惨なまま老いていく。そんな話です。


人を選ぶ作品であるのは間違いないと思うのですが、きれいごとや幸せばかりを描く作品よりも、どうしても共感してします。別にニヒリズムを標榜しているわけでもないのに。


ではまた!



阿Qを伝えることになると、思想の上に何か幽霊のようなものがあって結末があやふやになる。
-魯迅『阿Q正伝』




どうも!

今回紹介する『阿Q正伝』の著者である魯迅は、かつて日本で医学を学び、夏目漱石にも傾倒した中国人作家です。

日本で医療を学び、祖国の人々の健康を守りたいとの信念を抱いていた青年期の魯迅は、ある講義をきっかけに時の中国人の精神構造に疑問を持ちます。

魯迅はこの疑問をきっかけに「今の中国に必要なのは、医療ではなく精神改革である」と考えるようになり、文学による啓蒙活動を開始しました。このあたりのことは魯迅の別作品で自伝的短編の『藤野先生』に詳しく書かれております。この作品についても、後々ご紹介できれば。

そして、魯迅の「啓蒙活動」の思いの中で記された作品の一つが、この『阿Q正伝』です。

『阿Q正伝』あらすじ
時代が清から中華民国へ変わろうとする辛亥革命の時期、中国のある小さな村に、本名すらはっきりしない、村の半端仕事をしてはその日暮らしをする日雇いの阿Qという男がいた。
彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。
ある日、阿Qは村の金持ちである趙家の女中に劣情を催し、言い寄ろうとして逃げられた上に趙の旦那の怒りを買って村八分になり、仕事にもあぶれてしまう。食うに困って盗みを働き、逃亡同然の生活を続けるうちに、革命党が近くの町にやってきた事を耳にした彼は、意味もわからぬまま「革命」に便乗して騒いだ結果、革命派の趙家略奪に関与した無実の容疑で逮捕される。 無知ゆえに筋道たてた弁明も出来ず、流されるままに刑場に引き出され、あっけなく銃殺されてしまった阿Qに、観客達は不満を述べ立てるのだった。

無知で、無教養で、浅薄で、軽薄で、低レベルな精神構造をしている主人公の阿Qという男は、最後に自分で自分の首を絞めて、処刑されます。

作中、阿Qがその愚かさ故に、町民から軽んじられる姿が描かれるのですが、阿Qは言い訳や御託を並べて自分を慰めます。その自分を慰める姿が、かえって阿Qの「無自覚な愚かさ」を描いているようで、見ていて救いようがない可哀そうな男という印象を受けました。

「無自覚」は、自分をかえりみても、自分の欠点に「気付けない」という事です。恐ろしいですね。
まさに魯迅が指摘した、中国人の芳しくない精神構造も、この「無自覚」のあたりにあります。
自分の無知に、無教養に、精神的欠陥に、気付けない人々。何からも啓蒙を受けず、確固たる信念も掲げていない。他者を貶め、笑いものにすることに恥を感じない。自分に疑問を持たない。
そんな人々への痛烈な批判が、本作では描かれます。

「じゃあ絶えず自分を疑えばいいのか」とも思いますが、それはそれで不健全ですし、今度は疑い過ぎで信念を育てられないという悲劇も生まれてしまうわけで。難しいところです。
そして、『阿Q正伝』を読んでいると、かつて自分にも阿Qのような側面が強かったことが思い出され、いたたまれない気持ちになります。恥ずかしくてたまらなく、消えてしまいたくなるんです。そういう意味では、読了には大変骨が折れました。


阿Qは最後、死に至ります。つまり、「無自覚」は死の病としても描かれているとも読めます。
阿Qの死を見世物として捉える人々もまた、やはり「無自覚」です。


阿Qを愚かだと思う一方で、自分は果たしてどうなのか。阿Qの死を笑った「無自覚」な人々になってはいないか。一歩間違えたら阿Qのようになっていたのではないか。そう思うと、背筋がゾッとします。


ではまた!


彼はそのような奇怪千万な出来事をどう考えてよいのか、まるで見当がつかなかった。
-ゴーゴリ『鼻』



どうも!

なんとなく買った本に同時収録されていた、『鼻』を読んでみました。

僕は全くの初見、予備知識なしの状態で読んでみたのですが、読後最初の感想は「なにこれ????」でした。


あらすじを説明するにしても、

理髪師の朝食のパンの中に、人の鼻が入り込んでいた。
それは常連客のコワリョーフのものだった。
一方コワリョーフは、ある朝起きたら鼻が無くなっているのに気づいた。
コワーリョフは、自分の鼻が高い社会的地位を得て、良い服に身を包み、馬車に乗って去っていく姿を見た。
気が狂いそうになりながら、鼻を追跡しようと奔走する。
鼻を手に入れ、医者に行くが、治療を拒否されてしまう。
ある朝起きたら、鼻は元通りに自分の顔にくっついていた。

これです。

うーん…やっぱりよくわからない。

特に、鼻が実在の人間の世に振舞って街を闊歩する姿は、いったい何なんでしょう??

読後感を味わいたかったのですが、話の本質が理解できず、味わえない。初めての体験です。

そんなわけなので、この『鼻』はふとした時に思い出しては、どんなものなのか考えてみたりしてます。

いつか理解したいもんですね。

ではまた!

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