アーツ×アーツ

本好きでマンガ好きのジョン・スミスが書く、名著礼賛ブログです。

カテゴリ: 中編


阿Qを伝えることになると、思想の上に何か幽霊のようなものがあって結末があやふやになる。
-魯迅『阿Q正伝』




どうも!

今回紹介する『阿Q正伝』の著者である魯迅は、かつて日本で医学を学び、夏目漱石にも傾倒した中国人作家です。

日本で医療を学び、祖国の人々の健康を守りたいとの信念を抱いていた青年期の魯迅は、ある講義をきっかけに時の中国人の精神構造に疑問を持ちます。

魯迅はこの疑問をきっかけに「今の中国に必要なのは、医療ではなく精神改革である」と考えるようになり、文学による啓蒙活動を開始しました。このあたりのことは魯迅の別作品で自伝的短編の『藤野先生』に詳しく書かれております。この作品についても、後々ご紹介できれば。

そして、魯迅の「啓蒙活動」の思いの中で記された作品の一つが、この『阿Q正伝』です。

『阿Q正伝』あらすじ
時代が清から中華民国へ変わろうとする辛亥革命の時期、中国のある小さな村に、本名すらはっきりしない、村の半端仕事をしてはその日暮らしをする日雇いの阿Qという男がいた。
彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。
ある日、阿Qは村の金持ちである趙家の女中に劣情を催し、言い寄ろうとして逃げられた上に趙の旦那の怒りを買って村八分になり、仕事にもあぶれてしまう。食うに困って盗みを働き、逃亡同然の生活を続けるうちに、革命党が近くの町にやってきた事を耳にした彼は、意味もわからぬまま「革命」に便乗して騒いだ結果、革命派の趙家略奪に関与した無実の容疑で逮捕される。 無知ゆえに筋道たてた弁明も出来ず、流されるままに刑場に引き出され、あっけなく銃殺されてしまった阿Qに、観客達は不満を述べ立てるのだった。

無知で、無教養で、浅薄で、軽薄で、低レベルな精神構造をしている主人公の阿Qという男は、最後に自分で自分の首を絞めて、処刑されます。

作中、阿Qがその愚かさ故に、町民から軽んじられる姿が描かれるのですが、阿Qは言い訳や御託を並べて自分を慰めます。その自分を慰める姿が、かえって阿Qの「無自覚な愚かさ」を描いているようで、見ていて救いようがない可哀そうな男という印象を受けました。

「無自覚」は、自分をかえりみても、自分の欠点に「気付けない」という事です。恐ろしいですね。
まさに魯迅が指摘した、中国人の芳しくない精神構造も、この「無自覚」のあたりにあります。
自分の無知に、無教養に、精神的欠陥に、気付けない人々。何からも啓蒙を受けず、確固たる信念も掲げていない。他者を貶め、笑いものにすることに恥を感じない。自分に疑問を持たない。
そんな人々への痛烈な批判が、本作では描かれます。

「じゃあ絶えず自分を疑えばいいのか」とも思いますが、それはそれで不健全ですし、今度は疑い過ぎで信念を育てられないという悲劇も生まれてしまうわけで。難しいところです。
そして、『阿Q正伝』を読んでいると、かつて自分にも阿Qのような側面が強かったことが思い出され、いたたまれない気持ちになります。恥ずかしくてたまらなく、消えてしまいたくなるんです。そういう意味では、読了には大変骨が折れました。


阿Qは最後、死に至ります。つまり、「無自覚」は死の病としても描かれているとも読めます。
阿Qの死を見世物として捉える人々もまた、やはり「無自覚」です。


阿Qを愚かだと思う一方で、自分は果たしてどうなのか。阿Qの死を笑った「無自覚」な人々になってはいないか。一歩間違えたら阿Qのようになっていたのではないか。そう思うと、背筋がゾッとします。


ではまた!


彼はそのような奇怪千万な出来事をどう考えてよいのか、まるで見当がつかなかった。
-ゴーゴリ『鼻』



どうも!

なんとなく買った本に同時収録されていた、『鼻』を読んでみました。

僕は全くの初見、予備知識なしの状態で読んでみたのですが、読後最初の感想は「なにこれ????」でした。


あらすじを説明するにしても、

理髪師の朝食のパンの中に、人の鼻が入り込んでいた。
それは常連客のコワリョーフのものだった。
一方コワリョーフは、ある朝起きたら鼻が無くなっているのに気づいた。
コワーリョフは、自分の鼻が高い社会的地位を得て、良い服に身を包み、馬車に乗って去っていく姿を見た。
気が狂いそうになりながら、鼻を追跡しようと奔走する。
鼻を手に入れ、医者に行くが、治療を拒否されてしまう。
ある朝起きたら、鼻は元通りに自分の顔にくっついていた。

これです。

うーん…やっぱりよくわからない。

特に、鼻が実在の人間の世に振舞って街を闊歩する姿は、いったい何なんでしょう??

読後感を味わいたかったのですが、話の本質が理解できず、味わえない。初めての体験です。

そんなわけなので、この『鼻』はふとした時に思い出しては、どんなものなのか考えてみたりしてます。

いつか理解したいもんですね。

ではまた!

何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの
―石原慎太郎『太陽の季節』






どうも!

芥川賞を取った『太陽の季節』を、今更ながら読みました。

僕、この本好きです。


大人でも子供でもない、10代後半の時期って、やり場のない孤独感を内に秘めてませんでしたか?

何かが大きく間違っているのだけれど、それがいったい何なのか、どこから来ているのか、どうすれば正しいのか、わからないままただ快楽に溺れる。
『太陽の季節』あらすじ
 高校生・津川竜哉はバスケット部からボクシング部に転部し、ボクシングに熱中しながら部の仲間とタバコ・酒・バクチ・女遊び・喧嘩の自堕落な生活をしている。街でナンパした少女の英子と肉体関係を結び、英子は次第に竜哉に惹かれていく。だが竜哉は英子に付き纏われるのに嫌気がさし、英子に関心を示した兄・道久に彼女を5千円で売りつける。
(Wikipedia)

主人公の竜哉は今まで、出会った女性に対して特別な感情を抱くことがなかったのですが、自分には図れない人間性を備えた英子と出会い、少しばかり愛情や嫉妬といった人間味のある感情が自分の中に生まれることを自覚します。

しかし皮肉なことに、英子が竜哉に惹かれることで、竜哉は英子に興味を失います。

英子の愛情を試す竜哉の言動や行動からは、大切なものを慈しめない悲しさが漂います。
竜哉の行いは絶対的に間違っています。しかし、竜哉を絶対的な悪だと断定することはなんだかできません。
少なからず、共鳴してしまうんです。

竜哉には、悪友もいましたが、あくまで利害が先に来る関係性でした。
心から分かり合える相手は、竜哉にはいなかったのかもしれません。

愛が分からない。愛の築き方もわからない。
物質的に豊かなはずなのに、どうしても満たされない。満たし方もわからない。

10代後半の、生々しい感性を描いた名文です。


ではまた!

溌剌として美しい彼女という人間のなかには、狡さと暢気さ、技巧と素朴、おとなしさとやんちゃさ、といったようなものが、一種特別な魅力ある混じり合いをしていた。
-ツルゲーネフ『はつ恋』




どうも!

恋とか愛って、語るの難しくないですか?

恋愛感情って、言葉にすればするほど的を外れていく気がするんです。

本書は文章を「書いて」いるはずなのに、恋について「描いて」いるんです。本
書から香る雰囲気と丁寧で美しく詩的な文章は、読者の心にゆっくりと浸みこみます。
『はつ恋』あらすじ
1833年夏。16歳の少年ウラジーミルは、モスクワ市内、ネスクヌーイ湖のほとりの別荘で両親とともに住んでいた。 ある日の事、隣に引っ越してきた年上の美しい女性、ジナイーダに主人公は淡い恋心を抱く。だが、ジナイーダはいわばコケットで、彼女に惚れる何人もの「崇拝者」達を自身の家に集めては、いいようにあしらって楽しむような女性だった。
(Wikipedia)

本作は、老いた主人公が青春時代を振り返るという形式で書かれます。

コケティッシュ(女性の仕草や様子に、男の気を引くような媚態が混じっているさま。)な相手に振り回される主人公の切実な思いは、どこかに甘さや不完全さ、未熟さを含んでいて、老いてからそんな自分を振り返ることの怖さや後ろめたさも感じさせます。

恋について語るのが野暮なように、この本については語ってしまえばそれまでです。

僕が言えるのは、「ぜひ読んでください。」それだけ!

ではまた!


そこでみんなは、沈黙したまま、悲しげに彼をじっと見つめた。
-カフカ『変身』




どうも!

ある朝起きたら虫になっている。
突拍子もない設定で知られるカフカの代表作『変身』が描くのは、「普通」な家族が苦悩していくその姿です。

『変身』あらすじ
布地の販売員をしている青年グレーゴル・ザムザは、ある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な毒虫になってしまっていることに気が付く。
(Wikipedia)

『変身』の主人公は虫となったグレーゴルでありますが、グレーゴルに共感する人は少なくないのではないでしょうか。

グレーゴルは辛い仕事も懸命に頑張り、借金を抱える一家を支える大黒柱でした。

それが突然、脈略もなく虫となってしまい、家族に依存することでしか生きることが出来なくなってしまうのです。

動作を気持ち悪がられ、何を考えているのか理解されなくなり、事務的に生かされ、軽視されてしまう。

虫になるという理不尽の許容は誰にも出来ず、とはいえそれは嘘でもなく圧倒的な現実であるという事実。


グレゴールは最後、家族から世話を放棄され、ひっそりと息絶えます。

亡骸はお手伝いの手により捨てられ、家族はグレゴールという枷から解き放たれた未来に思いを馳せて物語は終わります。

グレーゴルに生かされていた家族は、虫となったグレーゴルを支えることで生きる力を取り戻し、最後グレーゴルを殺すことで重りを捨てさり、より良い将来を手に入れます。

グレーゴルは「家族だから家族を愛した」けれど、家族は「養ってくれるからグレーゴルを愛した」のでしょうか。

この悲劇は、互いの愛の由来が全くの別物だからこそのものであるように思いますが、少し卑屈な面を持っているように見えるグレーゴルも、卑屈故にそれに気づいていた気がします。


「虫」になるという理不尽は、ある日突然訪れました。

自分が「虫」になった時、グレーゴルのように打ち捨てられないと誰が断言できるでしょう。

ではまた!

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