アーツ×アーツ

本好きでマンガ好きのジョン・スミスが書く、名著礼賛ブログです。


あらゆる称賛、あらゆる栄誉を一身に担うというて、それほど女の浅薄な心を満足させるものがまたとあろうか。
-モーパッサン『首飾り』





どうも!

モーパッサンの中でも有名な話の一つが、今回書きます『首飾り』です。

ショートストーリーで見事なオチがつくという点が特徴的で、星新一のショートショートと同じ雰囲気が作品から漂います。

前回紹介した別作品の『ある自殺者の手記』や『狂人日記』と同様、人間の業をテーマにしたかのような内容となっております。上記の二作と異なる点は、主人公が狂わないという点です。ただ、狂ってはいないだけで、ある種の観念に憑りつかれており、精神状態は袋小路の悪循環に陥っております。

この悪循環な精神状態(しかも、自分を疑わないから決して治らない)が、自分をかえりみたときに心当たりがあるようなものだから、読んだら何だかゾッとするというわけです。


『首飾り』あらすじ
マティルド・ロワゼルは美しい女性であるが、文部省の小役人と結婚する。日頃から自分ほどの器量良しならどんな贅沢でも望めたのにと考えており、自分には手の届きそうにない上流階級の暮らしや優雅なお茶会、晩餐会を空想していた。また、彼女はドレスやネックレスといった類のものをもっておらず、そのくせ、自分はそれらを身に着けるために生まれてきたと考えるほど、そんなものばかりが好きであった。それほどまでに彼女は人にうらやまれたり、ちやほやされたかったのだ。
ある日、夫は彼女が喜ぶだろうと思い、苦労して大臣主催のパーティーの招待状を手に入れて帰ってくる。ところが、マティルドはパーティーに着ていく服がないと言いだし大粒の涙を流す。そこで夫は仕方なく、なけなしの400フランを妻のドレスを仕立てるために差し出すのであった。しかし、パーティの日が近づきドレスが仕立てあがっても彼女はふさぎ込んだままであった。夫が訳を尋ねると、今度は身に着ける装身具がひとつもないからだと言うのである。夫は友人のフォレスチエ夫人に借りに行くように提案する。
(Wikipedia)

Wikipediaから引用した上記のあらすじは、起承転結の「承」に当たる部分までです。
オチはぜひとも本書を取ってお楽しみ頂きたく思います。


なんと皮肉が効いた物語なのか、というのが読後の率直な感想でした。
物語の主人公であるロワゼルのように、「自分はもっと評価されるべき」といった思いを内に抱える人は数多い事かと思います。そんな人々はこの物語に触れるとどう思うでしょうか。

ロワゼルと自分を重ねて胸を痛める?
自分ならこんなことにならない。と笑いものにする?

いずれにせよ、簡単に割り切れない思いを抱えるのではないでしょうか。この物語に触れて何も感じない方は、きっととても幸福な方です。


自分の心のどこかに空疎な自信家であるロワゼルを見出した僕は、この物語を読んで背筋が寒くなるのでした。


ではまた!


知識発生の最初の兆候は、死に対する希求である。
-カフカ『罪・苦痛・希望・及び真実の道についての研究』




どうも!

『変身』で有名なカフカの別作品です。

読んでから知ったのですが、本作は思想書のような作品でした。

分かる部分もあればわからない部分もあり、果たしてカフカがどれだけ考察を深めていたのか、読めば読むほど想像が膨らみます。

気になった箇所をいくつか抜粋します。


「すべての、人間の過失は、性急といふ事だ」

「ある点から先へ進むと、もはや、後戻りといふことがないようになる。それこそ、到達されなければならない点なのだ。」

「悪魔の用いる最も有効な誘惑術の一つは争いへの挑戦である。」

「人間が、たとへば、一個の林檎について抱き得る観念の多様性。」



何かに挑戦したときから、カフカは、もう「戻れない」と言っております。
「挑戦」は悪魔の誘惑であり、女性との闘いに似ているからです。
僭越ながら、そのたとえはとてもしっくりと感じられました。

しかし一方、急ぎ過ぎること(性急)にも警鐘を鳴らしております。

「挑戦」に酔いしれながらも、酔いに任せて到達を急いではいけない。と、読むことができます。

「継続」について、発展の決定的な瞬間である、とも述べています。


「挑戦」に身を投じても、「性急」にならず、「継続」を意識する。


なんか、そういうことが苦手な私は、読んでいて怒られているかのような気持ちになります。
溜息をつきたい。


ではまた!


阿Qを伝えることになると、思想の上に何か幽霊のようなものがあって結末があやふやになる。
-魯迅『阿Q正伝』




どうも!

今回紹介する『阿Q正伝』の著者である魯迅は、かつて日本で医学を学び、夏目漱石にも傾倒した中国人作家です。

日本で医療を学び、祖国の人々の健康を守りたいとの信念を抱いていた青年期の魯迅は、ある講義をきっかけに時の中国人の精神構造に疑問を持ちます。

魯迅はこの疑問をきっかけに「今の中国に必要なのは、医療ではなく精神改革である」と考えるようになり、文学による啓蒙活動を開始しました。このあたりのことは魯迅の別作品で自伝的短編の『藤野先生』に詳しく書かれております。この作品についても、後々ご紹介できれば。

そして、魯迅の「啓蒙活動」の思いの中で記された作品の一つが、この『阿Q正伝』です。

『阿Q正伝』あらすじ
時代が清から中華民国へ変わろうとする辛亥革命の時期、中国のある小さな村に、本名すらはっきりしない、村の半端仕事をしてはその日暮らしをする日雇いの阿Qという男がいた。
彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。
ある日、阿Qは村の金持ちである趙家の女中に劣情を催し、言い寄ろうとして逃げられた上に趙の旦那の怒りを買って村八分になり、仕事にもあぶれてしまう。食うに困って盗みを働き、逃亡同然の生活を続けるうちに、革命党が近くの町にやってきた事を耳にした彼は、意味もわからぬまま「革命」に便乗して騒いだ結果、革命派の趙家略奪に関与した無実の容疑で逮捕される。 無知ゆえに筋道たてた弁明も出来ず、流されるままに刑場に引き出され、あっけなく銃殺されてしまった阿Qに、観客達は不満を述べ立てるのだった。

無知で、無教養で、浅薄で、軽薄で、低レベルな精神構造をしている主人公の阿Qという男は、最後に自分で自分の首を絞めて、処刑されます。

作中、阿Qがその愚かさ故に、町民から軽んじられる姿が描かれるのですが、阿Qは言い訳や御託を並べて自分を慰めます。その自分を慰める姿が、かえって阿Qの「無自覚な愚かさ」を描いているようで、見ていて救いようがない可哀そうな男という印象を受けました。

「無自覚」は、自分をかえりみても、自分の欠点に「気付けない」という事です。恐ろしいですね。
まさに魯迅が指摘した、中国人の芳しくない精神構造も、この「無自覚」のあたりにあります。
自分の無知に、無教養に、精神的欠陥に、気付けない人々。何からも啓蒙を受けず、確固たる信念も掲げていない。他者を貶め、笑いものにすることに恥を感じない。自分に疑問を持たない。
そんな人々への痛烈な批判が、本作では描かれます。

「じゃあ絶えず自分を疑えばいいのか」とも思いますが、それはそれで不健全ですし、今度は疑い過ぎで信念を育てられないという悲劇も生まれてしまうわけで。難しいところです。
そして、『阿Q正伝』を読んでいると、かつて自分にも阿Qのような側面が強かったことが思い出され、いたたまれない気持ちになります。恥ずかしくてたまらなく、消えてしまいたくなるんです。そういう意味では、読了には大変骨が折れました。


阿Qは最後、死に至ります。つまり、「無自覚」は死の病としても描かれているとも読めます。
阿Qの死を見世物として捉える人々もまた、やはり「無自覚」です。


阿Qを愚かだと思う一方で、自分は果たしてどうなのか。阿Qの死を笑った「無自覚」な人々になってはいないか。一歩間違えたら阿Qのようになっていたのではないか。そう思うと、背筋がゾッとします。


ではまた!

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